面白くない傘
私が栃木の家賃月3万6千円のアパートの一室に住んでいた頃、近所に田所という男が住んでいた。
肌の皺や毛髪の質感だけで判断すると彼は40代前半くらいに見えた。
しかし、ほとんど肉がついていない様や外から見てもわかる骨の細さ、そして何より歯が上にも下にも一本も無いことから、神秘的という表現は大袈裟で当てはまらないものの、年齢を超越したような印象を彼は人に与えた。
誰がわざわざ調べてそう呼び始めたのか知らないが、彼は栃木にあって何故か沖縄弁で「歯が無い人」を意味する「ハーモー」と陰で渾名されていることを何かの拍子に耳に挟んだ。
彼はその近辺で最も大きな家に一人で住んでいた。
確かに不気味にも感じ取れる体型や歯が無いことを理由に彼を気味悪がる人もいたようだが、彼は何か特別問題を起こすことはなかったし、こちらから挨拶をすれば挨拶を返してくれたので、私を含む大半の近隣住民は彼に好感を抱きこそしないものの、少なくとも彼が自分たちにとって有害な人間だと考えることはなかった。
彼が何の仕事をしているのか、あるいは仕事をしていないのか、知っている人はいなかったし、誰も聞かなかった。
私が挨拶以外に彼と言葉を交わしたのは2回だけだった。
その2回の会話のきっかけはどちらも彼が私に話しかけてきたことであり、その会話のどちらも長く続くことはなかった。
私は「有害ではない」彼に特別な関心を持っていなかったので、話しかけられた時は少し意外に思った程度で、こちらから彼のことについて何か聞き出そうということは考えなかったし、自分のことを話そうという気にもならなかった。
私には他人に、ましてよく知りもしない近隣住民に話せるほどの「自分のこと」は無かったので、自分のことを話す気にならなかったということについては当然だった。
1回目の会話は夜、私がアルバイトを終え、アパートの手前までたどり着いた時だった。
彼に学生かと聞かれ、学生ではない、アルバイトをして生活していると答えた。
彼は黙って私の目を見ていたが、私は話し込むことを逃れるため会話を切り上げて帰宅した。
彼は歯が無い割にはっきりと喋った。
その時彼が何故外にいて何をしていたのかは覚えていない。
あるいはその時もわかっていなかったかもしれない。
繰り返すが、私は彼に特別な関心を持っていなかった。
2回目の会話は、彼に学生かと聞かれた日から半年ほど過ぎた頃で、朝だった。
その日は雨が降っていた。
私はアパートの部屋を出て、半年前とは異なる、人生でおそらく7回目か8回目(数えていないのではっきりしない)に採用されたバイト先へ向かおうとしていた。
私は彼がいることに気付いていなかった。
私が傘をさして歩き始めた時、背後から
「キミ、カサ」
と聞こえた。
私は「キミ、カサ」が「君、傘」を意味することに気付くのに数秒かかった。
そして「キミ、カサ」が「君、傘」を意味することに気付いた上で「君、傘」の意味がわからなかった。
振り返ると彼がいた。
彼は傘をさしておらず、ずぶ濡れになっていた。
それを見て私は「君、傘」という言葉は彼が私の傘欲しさに発したものだと解釈し、
「嫌です、何でですか」
と答えた。
すると彼は、
「いや、君、傘面白くないな」
と言った。
私は彼の発した言葉の意図が理解できなかった。
また、彼の発音から私を蔑むようなニュアンスは全く感じられなかったにも関わらず、何故か無性に腹が立った。
確かにその時私がさしていた傘はコンビニで買った透明のビニール傘であり、「面白い」ようなものではなかった。
しかし、よく知らない人間に、いや、たとえよく知っている人間からであっても「傘面白くないな」などと言われる理由はわからなかった。
私は瞬間半ば捨て鉢になり、「面白くない」と言われた傘を彼に見せつけるようにへし折った。
「面白くない」と言われた傘をへし折るという行為はそのビニール傘が「面白くない」ことを認める行為であったため、私の彼に対する反抗心の表現としては矛盾を抱えていた。
真に彼に反抗するのであれば、私は彼の言葉を完全に無視し、何事も無かったかのように平然とコンビニのビニール傘で雨を凌ぎながらバイト先へ向かうべきであった。
しかし、そのような理屈は私にはどうでもよかった。
私は怒っていた。
また一方で、怒りという感情がこれほど明確に、これは怒りであるという実感を伴って自分の中で生まれた経験がこれまでにあっただろうか、などと何処かで考えていた。
その怒りは輪郭、さらには対象さえはっきりしないものだった。
目の前で傘をへし折った私を見て、彼は何も言わず自宅へ帰って行った。
私の怒りは収まらなかった。
怒っている私を見ている自分も消えなかった。
私は雨に濡れながら早足でバイト先へ向かい、制服に着替え、その日の労働を淡々と、ほぼ完璧にこなし、そして雨に濡れながら帰宅した。
翌日も雨だった。
私は道すがらコンビニに立ち寄ってビニール傘を購入し、その傘で雨を凌ぎながらバイト先へ向かい、金を得るために労働した。
「ハーモー」と呼ばれていた彼が栃木から何処かへ引っ越すまで、私が彼ともう一度言葉を交わすことはなかった。
彼がまだこの世にいるのか、この世にいるとすればこの世の何処にいるのか、私は知らない。
私は今大阪に住んでいる。
明日大阪は雨の予報だ。
私は彼のことを思い出し、「面白くない」傘をさしてバイト先へ向かい、労働し、金を得るだろう。
私はもう雨の音を聞くだけで心から何かに怒ることが出来るのだ。