夏風邪

夏風邪を引いた。

京都の街は少なくとも私の脳内において半狂乱、半ば狂乱、いや、全狂乱、全う狂乱、とにかく狂乱。

現在地は鴨川デルタである。なぜ夏風邪を引いておるのに自宅、あるいは内科医院にて養生しておらぬのかと問われれば、答えは「知るか」。強いて言うなれば鴨川デルタに対する愛と拘泥、信頼感のような何か。あと医者というものは白衣を装着しており、感じる必要のない威圧感を感じるため。

鴨川デルタ周辺の川底からは乾そうめんの束、脳漿の飛び出た半魚人、大量のボールペンシル、見るからに貧乏な日雇い漫才師、ボンカレー、煙草などが噴出、渦を巻いて天を目指している。鳴り響くチャットモンチー。少なくとも私の脳内において。

対岸(東)に訳のわからぬ、太鼓、おそらく異国由来の太鼓を一心不乱に、殴るように叩き続けている青年がいる。私は対岸に渡り話しかける。

「あの、なんかすごいことになってますけど、太鼓、太鼓っていうか、なんですか、打楽器、打楽器でいいんですか、それ、叩いてますけど、叩いてる場合なんですか」

「叩いてる場合なんですかってあなた、叩いてる場合でしょうが。太鼓叩き、それも高次元の、俺は高次元の太鼓叩きとしてえげつない光に包まれ、親類に囲まれつつ生を完遂。拍手喝采。捲土重来」

「あなた、それ素手で叩いてますけど、手、血まみれですけど、そう、私風邪引いてまして、昨日からなんかボンカレーが宙を舞ってたりとか、私、おかしいんでしょうか」

ボンカレーボンカレーは美味い。こくまろ」

こいつは駄目かもしれない。そう思った時には既に青年は吸い寄せられるようにデルタの渦に飲み込まれ、天に昇っている。私は一応なんとなしに合掌し「なまんだぶ」みたいなことを呟く。

青年のことはまったく悲惨なことで心が傷まない訳でもなかったが、とにかく私はこの狂乱の風景を元ある姿に戻さねばならない。しかし方策が判らぬ。誰か、助言を、助言をください。

すると通りかかった人間大の烏賊のようなひょろひょろの老人。目を見ると澄んでいる。目が澄んでいるということは信頼がおける。

 私は期待を抱きつつ老人に話しかける。

「あの、ずっとチャットモンチーが鳴り止まないんですけど、あなたにも聴こえてます?」

チャットモンチー?」

チャットモンチー。バンドですバンド。確かもう解散しましたけど」

「ああ、チャットモンチー。私です」

「えーと」

「私がチャットモンチーです。こくまろ」

こいつも駄目であった。

デルタの渦に飲み込まれる老人。

目の澄んだ老人が駄目であったことは私に少なからず衝撃を与えた。

空恐ろしくなった私は、逃げよう、と思った。耳に鳴り響くチャットモンチーの楽曲に重ねて喉がちぎれる程に絶唱しながら、元田中の下宿へ向けて全力疾走した。

しかしもう駄目であった。遅かった。

徒競走では速い方だった。しかし駄目であった。

私は渦に飲み込まれ天に昇り、脳漿の飛び出た半魚人とともに煙草を喫みつつボンカレーを食べて暮らした。

脳内にはチャットモンチーの激烈にポップな楽曲が鳴り響いていた。